「無謬性」について

想田和弘さんという方がTwitterで次のような発言をされているのをたまたま見かけました。140文字で物事の本質を見事にえぐりだしたつぶやきだと思います。
—-転載ここから—-
安倍氏が広島で批判されたにもかかわらず、長崎でもコピペしたことは、彼が過ちを犯したとき、それを認め訂正することで自らの無謬性を損なうくらいなら、もう一度過ちを繰り返して居直ることを選ぶ人間であることを示している。国家の最高権力者として、これほど危険な人物はいない。
—-転載ここまで—-
https://twitter.com/KazuhiroSoda/status/498108841024704512
ただし、この「過ちを犯したとき、それを認め訂正することで自らの無謬性を損なうくらいなら、もう一度過ちを繰り返して居直ることを選ぶ」というのは安倍ちゃんだけの心の習性ではなく、安倍ちゃんを取り囲む政治家や官僚のそれであり、さらに、かつて日本を暴走させた社会全体のメンタリティでもあると僕は理解しています。
「無謬性」という言葉を見ると、丸山眞男という思想家のことを思い出す人もいると思いますが、かつて日本国家を暴走させた日本独特の精神構造をえぐりだして示した彼も、戦後、アカデミズムや市民運動家の間で「天皇」のような存在になり、彼のことを「過ち」を犯さない人間であると信じていた人も少なくありません。彼の主張の論理的な過ちを指摘しようものならば、彼の弟子たちから総攻撃を受けるような有り様。
このこと自体「無謬性」を信じたい人々が容易にこの世から消えないことや、丸山眞男が示して見せた精神構造が簡単には変わらないことの証左だと僕は考えています。
「構造」はなかなか変わらないのです。その構造は、戦後、ずっと変わらず、その構造の中から生まれた「申し子」が安倍ちゃんであり、現在の安倍政権であると僕は理解しています。

 

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