Je ne suis pas Charlie.(私は「シャルリー」ではない。)

僕は「シャルリー」ではないことを、ここに断っておく。ここで言う「シャルリー」とは、僕の定義では「他者を侮辱することでしか表現する術を知らない者たち」を指す。

フランスの人民が暴力革命によって「自由」を獲得したことを思い出せば、暴力革命の際に集った歴史的なスポットに集まり、「表現の自由」を云々しながら暴力を批判・糾弾するデモを実行するとは、質の悪いジョークにしか思えない。

「表現の自由」を、何を表現しても暴力や弾圧などを受けない環境を他者からお膳立てしてもらうことであると思い込んでいる人が少なからずいらっしゃるようだが、そういう状況が実現されることは不可能だろう。

他者を侮辱すれば暴力を受ける確率は高くなるが、宗教的な話題をネタに侮辱する風刺画を繰り返し出版し続ければ、襲撃を受ける可能性は限りなく100%に近づく。

そのような危険を承知のうえで、それでも表現し続ける状況が「表現の自由」が実現された状態、というのが僕の定義である(ちなみに、特定秘密法が可決・施行された時に「表現の自由が守られなくなった」という捨て台詞を残してブログを自主的に閉じた人が少なからず存在するが、僕の用語法では、あれは「表現の不自由」と呼ぶ)。

「自分たちの表現の自由を侵す者があれば、その首をギロチンにかけるぞ」という脅しが効いている状況でのみ、表現に対する弾圧や暴力を牽制できる。つまり「表現の自由」の背後には抑止力としての暴力が不可欠なのだ。

しかし、今回のデモで批判や糾弾の対象になっている相手は、国内の政治権力や宗教的な権威ではなく、その首をギロチンにかけることは難しい。つまり、あまり効き目がないばかりか、火に油を注ぐデモであると言っていいだろう。

 

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